伊達 斉義(だて なりよし)は、江戸時代後期の大名。仙台藩11代藩主。伊達氏27代当主。官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守。
経歴
寛政10年3月7日(1798年4月22日)、仙台藩5代藩主・伊達吉村の八男・伊達村良の庶長子である陸奥一関藩主・田村村資の四男(すなわち吉村の曾孫にあたる)として江戸にて誕生。母は脇坂安親の娘。『寛政重修諸家譜』では幼名を吉五郎と記される。誕生直後、父の村資は隠居し、田村家は既に養子になっていた宗顕が相続した。
文化9年(1812年)に元服して諱を顕嘉(あきよし)、通称を石見と称した。相応しい年齢に達していないという理由で宗顕の養嗣子とならず、部屋住み身分として一関へ下る。
文政2年(1819年)4月26日に一関から仙台城に迎えられ、仙台藩の「藩治を摂関」する。仙台藩から幕府に願いが提出された末に、同年5月25日、嗣子なくして亡くなった10代藩主・斉宗の娘と婚約、その婿養子という形で11代藩主に就任した。なお、婚約者の芝姫は当時3歳であった。同年5月27日に氏を田村から伊達に、通称を石見から藤次郎に改める。
同年7月に亡き養父・斉宗より1字を取って諱を宗義(むねよし)と改め、さらに8月には江戸に上り11代将軍・徳川家斉に御目見して斉義(なりよし)と改名し、従四位少将に叙任し、陸奥守となる。
ちなみに斉宗の後継候補には斉義の他に、伊達家一門の登米伊達家の伊達宗充の子である幸五郎(のちの12代藩主・伊達斉邦、当時2歳)や同じく一門の涌谷伊達氏の源次郎(のちの伊達義基)がいたが、斉宗との血統の近さと年齢から見て斉義が適当だったとされる。
文政9年2月22日(1826年)に斉宗の娘である芝姫と婚礼を挙げるが、文政10年11月27日(1828年1月13日)、江戸で死去した。享年30(満29歳)。
後継者問題
斉義が死去した当時、文政8年9月6日(1825年10月17日)生まれの次男・穣三郎(後の慶邦)がいたが、幼少で御目見が済んでいないため、幕府に家督の相続を認められるのが困難な状況にあり、後継者選定は難航した。
老中の水野忠成は陸奥国仙台藩家臣・大條道直(監物)を呼びつけ、当時13歳であった斉義の正室の芝姫に将軍・徳川家斉の子を嫁がせて伊達家養嗣子にし、仙台藩を相続させるように提案がなされた。しかし大条はこれを断り、一族の伊達宗充(長門)の子で、斉義の従弟でかつての藩主後継候補の幸五郎(改め伊達斉邦)が斉義の娘婿となって仙台藩主を相続することとなった。
この斉義の後継者問題の一件は、『仙台叢書 第11巻』や『三百藩家臣人名事典1』に記されているが、公式記録にはなく、『三百藩藩主人名事典1』や『仙台市史』には記されていない。
系譜
- 父:田村村資(1763-1808)
- 母:阿琴 - 宝寿院、脇坂安親の娘
- 養父:伊達斉宗(1796-1819)
- 正室:芝姫(蓁子)(1816-1858) - 伊達斉宗の娘
- 側室:美寿 - 砂沢定栄の娘
- 長女:勁松院(1823-1861) - 微子(のりこ)、綵姫(まさひめ)、栄心院、伊達斉邦正室
- 長男:伊達祺丸(1824-1826) - 夭逝
- 三女:保子(1827-1904) - 祐姫、貞操院、亘理伊達邦実正室
- 側室:恒子 - 山本敬勝の娘
- 次男:伊達慶邦(1825-1874) - 13代藩主
- 次女:依(1827-1829) - 夭逝
- 養子
- 男子:伊達斉邦(1817-1841) - 登米伊達宗充の子、12代藩主
偏諱を受けた人物
宗義・斉義時代(「義」の字)
- 伊達義監(岩出山伊達家)
- 伊達義隆(岩谷堂伊達家)
- 伊達義基(涌谷伊達家、幼名:源次郎)
- 石川義光(角田石川家(陸奥石川氏))
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『三百藩家臣人名事典 1』新人物往来社。仙台藩は紫桃正隆の執筆。
- 『仙台叢書 第一巻』仙台叢書刊行会、大正11年(1922年)。
- 『伊達略系』
- 『仙台叢書 第10巻』鈴木省三、1926年(大正15年)。
- 『仙台叢書 第11巻』同上。




