礼文郡(れぶんぐん)は、北海道(北見国)宗谷総合振興局の郡。

人口2,171人、面積81.64km²、人口密度26.6人/km²。(2025年2月28日、住民基本台帳人口)

以下の1町を含む。

  • 礼文町(れぶんちょう)

郡域

1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。

郡名の由来

歴史

郡発足までの沿革

礼文はもと「れふんしり」と読んだ。江戸時代の礼文郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれたリイシリ場所に含まれた。

江戸時代後期になると文化4年には礼文島近海でロシアによる日本船襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が発生している。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、同年礼文郡域は天領とされた。文化5年には厳島神社が創建されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領(秋田藩警固地)とされ、同6年の6藩分領以降は秋田藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して礼文郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

  • 明治2年
    • 8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、北見国および礼文郡が設置される。開拓使が管轄。
    • 8月28日(1869年10月3日) - 金沢藩の領地となる(北海道の分領支配)。
  • 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
  • 明治5年
    • 4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
    • 10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
  • 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。なお当時礼文郡に町村は設けられなかった。
  • 明治11年(1878年) - 船泊村、神崎村、香深村、尺忍村が成立。
  • 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての礼文郡が発足。
  • 明治13年(1880年)3月 - 宗谷郡外三郡役所(宗谷枝幸利尻礼文郡役所)の管轄となる。
  • 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
  • 明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
  • 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、宗谷支庁の管轄となる。
  • 明治35年(1902年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(2村)
    • 船泊村(二級村) ← 船泊村、神崎村(現・礼文町)
    • 香深村(二級村) ← 香深村、尺忍村(現・礼文町)
  • 大正12年(1923年)4月1日 - 香深村が北海道一級町村制を施行。
  • 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
  • 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
  • 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道宗谷支庁の管轄となる。
  • 昭和31年(1956年)9月20日 - 香深村・船泊村が合併して礼文村となる。(1村)
  • 昭和34年(1959年)9月1日 - 礼文村が町制施行して礼文町となる。(1町)
  • 平成22年(2010年)4月1日 - 宗谷支庁が廃止され、宗谷総合振興局の管轄となる。

参考文献

  • 角川日本地名大辞典 1 北海道

関連項目

  • 松前藩
  • 箱館奉行
  • 商場(場所)知行制
  • 場所請負制
  • 北海道の分領支配
  • 礼文島・礼文岳

江戸家山道からスコトン岬をみる (Webより)

北海道礼文郡礼文町 中心部(香深)

礼文町 北海道の漁港 北海道漁港漁場協会

北海道礼文郡礼文町船泊村 by teras (ID:8051452) 写真共有サイトPHOTOHITO

北海道礼文郡礼文町船泊村 by teras (ID:8041411) 写真共有サイトPHOTOHITO