中川 久賢(なかがわ ひさかた)は、江戸時代中期の豊後国岡藩8代藩主である中川久貞の庶長子。病のために継嗣とはされず、父に先立った。
生涯
延享2年(1745年)9月13日、8代藩主・中川久貞の長男として、岡城で誕生した。母は側室の北条氏。幼名は千助。
しかし出生時より虚弱で、幼少時より眼疾があった。このため、久賢が出生したことは幕府に届けられなかった。久賢は寛延4年(1751年)に上方で療養することとし、岡を出て伏見屋敷に移った。高名な眼科医の診察を仰いだが、その功なく視力を失ってしまった。
父による追悼文によれば、久賢は聡明で温柔な人物で、俳諧・連句や楽器をたしなみ能を愛好する才人であった。眼病のために書物を学んだことがないにもかかわらず、文字の形を指で描いて示すという出来事もあったという。
宝暦11年(1761年)より江戸に移り、芝屋敷に滞在した。明和2年(1765年)4月20日、江戸において21歳で死去した。貝塚青松寺(現在の東京都港区愛宕)に葬られた。
久賢が死去すると、岡藩ははじめて久賢が出生していたことを幕府に届け出た。
久賢死後の明和5年(1768年)2月4日、弟の三郎(のち中川久徳)が嫡子として幕府に届け出られた。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/204
- 「中川氏御年譜」
- 「岡の母・虎姫の会」でデジタルテキスト化と紹介を行っている。




